トップ  >  ロシアの要人  >  ウラジーミル・プーチン


ロシア連邦の政治家。第2代ロシア連邦大統領(在任2000年 - 2008年)。第5代および第9代政府議長(首相)、統一ロシア党首(2009年現在)。連合国家閣僚評議会議長(首相)。最終学歴はレニングラード大学法学部卒業。学位は法学士(サンクトペテルブルク大学)、経済科学準博士(1997年、ただし、ロシアにおける旧「準博士」は社会主義圏では「博士」として扱われる)。階級は予備役大佐。

柔道家でもあり、段位は柔道五段(来日時に柔道六段を講道館柔道において贈られるも辞退。詳細は後述)。称号は、サンボと柔道のロシア連邦スポーツマスター。2005年12月よりヨーロッパ柔道連盟名誉会長を務める。

1999年12月31日のボリス・エリツィンの大統領辞任により大統領代行を務めたのち、2000年ロシア大統領選挙に勝利して正式に大統領に就任する。2004年の大統領選挙では再選を果たし、2008年5月7日まで大統領を務める。そして後任の大統領であるドミトリー・メドヴェージェフの指名により同月8日に首相に就任した。

8年間のプーチン政権でロシア経済は危機を脱して大きく成長し、ロシア社会から高い支持と評価を受けている。実際、国内総生産(GDP)は6倍に増大(購買力平価説では72%)し、貧困は半分以下に減り、平均月給が80ドルから640ドルに増加し、実質GDPが150%になった。

その一方で、第二次チェチェン紛争での人権侵害などにより、ロシア国外の政府や人権団体からロシアの人権と自由について追及されている。またロシア経済についても、ウラジーミル・ヤクーニンのようなプーチンと親密な関係にある人物たちによる統制がマスメディアの取材で明らかになっている。こうした統制は、ボリス・ネムツォフらプーチン政権の反対派によって厳しく批判されている。

<生い立ち>

1952年10月7日、レニングラードにて、父ウラジーミル・スピリドノヴィチ・プーチン(1911年 - 1999年)と母マリア・イヴァーノヴナ・シェロモーヴァ(1911年 - 1998年)とのあいだに生まれる。母は工場などで働いていた。父はソ連海軍に徴兵され、1930年代には潜水艦隊に配属となり、第二次世界大戦では内務人民委員部(NKVD)の破壊工作部隊に所属し、独ソ戦(大祖国戦争)で傷痍軍人となった。戦後は機械技師としてレニングラードの鉄道車両工場で働いた。2人の兄は、いずれもプーチンが生まれる前の1930年代に死亡(1人目は幼くして、2人目はレニングラード包囲戦のあいだにジフテリアで死亡)していたため、プーチンは一人っ子として育つ。プーチンの父方の祖父であるスピリドン(1879年 – 1965年)はプロの料理人であり、ヨシフ・スターリンのダーチャ(別荘)の1つにて給仕しており、それ以前はウラジーミル・レーニンに仕えていた。

プーチンは自伝で少年時代を振り返り、家庭環境はあまり裕福でなく、少年時代はレニングラードの共同アパートで過ごしたと語っている。1960年9月1日に共同アパートと同じ通りにある第193小学校に通い始める。小学生だったプーチンにドイツ語を教えていた教師によると、プーチンは母親似であるが、頑固で勤勉な性格は父親から受け継いでいたという。また、記憶力は抜群で頭の回転も速かったが、問題児で悪ふざけを繰り返していたと証言している。プーチン自身も後に幼少時代は相当な悪童であったと告白している。しかし6年生になると変化し、成績も上がり、ピオネール入団も許可された。この頃にはサンボと柔道も始めている。小学校卒業後、プーチンは化学の中等専門学校に入学した。

やがてプーチンはスパイ映画や小説からスパイに憧れを抱くようになり、ソ連国家保安委員会(KGB)で働きたいと想うようになった。その想いからプーチンは9年生(日本でいう中学3年生)の時、スパイになる方法を知るためにKGB支部を訪問する。そこでKGB職員に大学出身の場合は法学部が有利であることと志願者を採用しないことを聞かされた。プーチンはそれを忠実に守り、レニングラード大学法学部に入学し、在学中もKGBには自分から接触しなかったという。そして大学4年生のときにKGBから勧誘があったため、プーチンは1975年に同大学を卒業(なお、プーチンの卒業論文のテーマは国際法で、論文名は「貿易における最恵国待遇の諸原則」 «Принципы наиболее благоприятствуемой нации» であった)後、KGBへ就職する。KGBの職員であるためにはソビエト連邦共産党に入党することが必要だったため、プーチンは共産党員にもなっている。

KGBでは、最初にレニングラード支部事務局、その後訓練を経て対諜報活動局に配属される。それからさらなる研修を受けた後、第1総局(対外諜報部)レニングラード支部に勤務する。そして外国で諜報活動を行うためにKGB赤旗大学で学び、1985年に東ドイツのドレスデンへと派遣される。東ドイツには1990年まで滞在し、政治関係の情報を集める諜報活動に従事したとプーチン自身は語っている。しかし東西ドイツ統一によりレニングラードに戻り、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務することになった。このころに、大学生の頃に教わっていたアナトリー・サプチャークと懇意になる。

<政治の世界へ>

1990年、プーチンはKGBに辞表を提出し、レニングラード市ソビエト議長だったサプチャークの国際関係担当顧問となった。1991年6月にサプチャークがレニングラード(同年11月にサンクトペテルブルクに名称を変更)市長に当選すると、対外関係委員会議長に就任する。その後、1992年にサプチャークによりサンクトペテルブルク市副市長、1994年3月にサンクトペテルブルク市第一副市長に任命された。サンクトペテルブルク市の職員としてプーチンは外国企業誘致を行い外国からの投資の促進に努めた。またサプチャークの下で陰の実力者として活躍したため、「灰色の枢機卿」と呼ばれた(ロシアでは、陰の実力者に対してこのようなあだ名が付けられることがある)。

1996年にサプチャークがサンクトペテルブルク市長選挙でウラジーミル・ヤコブレフに敗れ退陣すると、プーチンはそれに伴い第一副市長を辞職する。ヤコブレフによる慰留もあったが、結局はそれを拒否した。その後、ロシア大統領府総務局長のパーヴェル・ボロジンによる抜擢で(アナトリー・チュバイス説もある)ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動した。プーチンはこの職に就任して法務とロシアの保有する海外資産の管理を担当した。1997年3月にはロシア大統領府副長官兼監督総局長に就任した。

1997年6月、プーチンはサンクトペテルブルク鉱山大学に「市場経済移行期における地域資源の戦略的計画」という論文を提出し、経済科学準博士の学位を得る。この論文の内容は、「豊富な資源を国家管理下におき、ロシアの内外政策に利用する」というものだった(この論文に関しては、2007年にアメリカの学者が盗作説を主張するも、その後立ち消えとなる)。

1998年5月にプーチンはロシア大統領府第一副長官に就任した。ここでは地方行政を担当し、地方の知事との連絡役を務めたが、後にプーチンはこの職務を「一番面白い仕事だった」と振り返っている。同年7月にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁(FSB)の長官に就任。この時、ボリス・エリツィン大統領(当時)のマネーロンダリング疑惑を捜査していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、首相だったエフゲニー・プリマコフのエリツィン追い落としクーデターを未然に防いだ。この功績によりプーチンはエリツィンの信頼を得るようになる。

プーチンはエリツィンによって1999年8月9日に第一副首相に任命された(同日セルゲイ・ステパーシンが首相を解任されたためそのまま首相代行に任命)。この時、エリツィンはプーチンを自身の後継者とすることを表明していた。さらに1週間後の8月16日には正式に首相に任命される。首相に就任するとロシア高層アパート連続爆破事件をきっかけにして勃発した第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕をふるい、「強いリーダー」というイメージを高め国民の支持を獲得した。当時、次期大統領選のプーチンの有力な対抗馬として元首相のプリマコフがいたが、同年12月19日に行われたロシア下院選挙で、プーチンを支持する与党・「統一」の獲得議席数がプリマコフらによって結党された「祖国・全ロシア」の議席数を超えてロシア連邦共産党に次ぐ第二党となったことにより、プーチンは次期大統領の座にさらに近づいた(後にプリマコフは次期大統領選への出馬を断念した)。そして同年12月31日に健康上の理由で引退を宣言したエリツィンによって大統領代行に指名される。

WikiPediaより
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